ちまちま本舗

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四季色ごはん サンプル

■片桐光雄 視点(書き下ろし「編集者の懊悩」より抜粋)

 とあるマンションの洒落たエントランスの操作盤で目的の部屋番号をプッシュして来訪を知らせれば、室内からモニター越しにこちらを確認したらしく、開けますという短い返答と共にオートロックのガラス張りドアが開いていく。
 奥へ進み、エレベーターで七階に上がって、目的のドアの前に立ち、今度は玄関のチャイムを鳴らして暫し待つ。ややあってドアが開いた先には、いつもふんわりした印象の有栖川さんではなくて、その相棒であるイケメンな犯罪学者がくつろいだ部屋着姿で、ぬっと顔を出したところだった。
 有栖川さんの担当編集者である私、片桐光雄が、本日ここに来ることは予め電話してあったので、彼は心得た顔でこちらに軽く会釈し、こちらも彼に頭を下げる。
「お疲れ様です、片桐さん」
「どうもお久しぶりです。火村先生。有栖川さんの原稿はまだですよね?」
「どうぞ上がって下さい。まだ執筆中ですが、もうそろそろ出来ると言ってましたから」
 どうぞ、と身体を引いてくれたので、遠慮なく玄関先に上がり込み、靴を脱いで彼が出してくれたスリッパを履いて、お邪魔しますと奥へ声を掛けながら居間へと続く短い廊下を歩く。
 ドアを開けて中に入っていく火村先生に続いて居間に進めば、ローテーブルの前には、ここの家主である有栖川さんが、ノートバソコンを前に座布団に陣取って一心不乱にキーを叩いているところだった。執筆中は異様に集中してるから、こちらに反応は出来ないだろうが、一応は挨拶を述べておく。
「こんにちは。有栖川さん。お邪魔します。お土産持ってきたので火村先生とどうぞ」
 こくり、とひとつ頷き、有栖川さんは視線をパソコンに向けたままでキーを叩く。頷くだけまだマシだ。まぁチャイムを鳴らした時点で、こちらの来訪は分かっているのだろうが。
「片桐さん、コーヒーでも淹れるので、こちらにどうぞ」
「ああ、すみません。お構いなく」
 オープンキッチンのカウンターに繋がるような形で配置してある食卓の椅子を一つ引き、そこに腰を下ろして自分の鞄を空いた椅子の上に置く。そして、忘れぬうちにとお土産の紙袋を火村先生に向けて差し出した。
「これ、お土産です。お口に合えばいいんですが」
「ありがとうございます」
 開けても構いませんか? と聞くのでどうぞと頷いた。中身は焼き菓子詰め合わせだ。執筆に集中すると、寝食を忘れがちな有栖川さんの修羅場の腹の足しにでもなればと持って来たが、ごく普通におやつとして食べてもらっても構わない。
「これは、いい非常食になりそうだ」
 べりべりと包装を開封して箱を開けるなり、小さく笑った火村先生は、どうやら私と同じ思考を辿ったらしい。おやつ入れらしい食卓の上の籠に、個装されたマドレーヌやクッキーやフィナンシェを隙間なく盛って、空き箱を崩してゴミ箱の近くに立てかけた。
「実はウィダーインゼリー各種の詰め合わせも、ちょっと考えたんですが」
「せめてそこは、カロリーメイト固形タイプの各種詰め合わせにしてください。あいつ本当に、執筆中は全然食べないから、そのうち歯が退化しそうだ」
 有栖川さんの執筆中の繭の頑丈っぷりと欠食ぶりを知っている者同士、はははと苦笑をこぼす。
 勝手知ったる動きで、来客用らしい真っ白のコーヒーカップとソーサーをカチャカチャと水屋から取り出し、コーヒーメーカーからコーヒーをカップに注いだ火村先生は、それだけに留まらず、冷蔵庫からパウンドケーキを取り出して、切った一切れを菓子皿に乗せてフォークを添え、スティックシュガーとミルクのポーションを付けてこちらに差し出す。淡い桃色のパウンドケーキは、外の桜を思わせる春の色だ。
「今回は春っぽく、苺のパウンドケーキだそうです。甘さ控えめにしたと言ってたので、良かったらどうぞ」
 だそうです、と表現したということは、このケーキの制作者は彼ではなく有栖川さんなのだろう。私は、くるりと背面側を向いて、まだキーを叩いている有栖川さんに頂きますと声を掛けた。
 有栖川さんが、いつも執筆前にはクッキーだのケーキだのを焼いておいて、空腹で動けなくなるのを回避しているのは御本人から聞いて知っていたが、それを実際に口にするのは実は初めてだ。
 フォークを入れて一口分を口に運ぶと、苺の香りがふわりと鼻に抜けた。甘さは確かに控えめだが、くどくなくてシンプルな味が直接舌に残って美味しい。パティシエになれるんじゃないかなと思うが、当人に言えば確実に謙遜されるだろう。
「美味しいです」
 それは良かった、と笑った火村先生は、私の対面に腰を下ろし、自分用らしいカフェオレ入りのマグカップを口に運ぶ。彼が猫舌だというのは有栖川さんから聞いているが、最初に聞いた時には意外なギャップに瞬いたものだ。
「ところで、火村先生……」
 どこかくつろいだ様子の彼ならば、今日は少しは良い返事がもらえるだろうかと期待しつつ、口を開いたのだが、フィナンシェの個装を開けていた火村先生は、ちらりとこちらを見て緩く首を振った。
「ああ、すみませんが、今、英都大学社会学部准教授の火村英生は生憎と不在でしてね。ここに居るのは、ただの有栖川有栖先生の世話係の男なので、いつもの執筆のお願いでしたら、私は何も聞かなかったことにします」
 毎度ながらの依頼が口火を切る前に、そんなセリフでもって先に拒否を切り出されてしまったので、やれやれと私は肩を落とす。今日はくろついだ雰囲気だったから、話だけでもと思ったが断られてしまった。
 この若き犯罪学者に何度も声を掛けているものの、本を書いてみないかという誘いに、未だかつて色よい返事を貰えたことはない。論文だけで手一杯だからという言葉が毎度の断り文句だが、今日の断り文句は、プライベートときたもんだ。
「それはそれは。では、そのお休み満喫中の彼に『私は諦めませんよ』とお伝え下さい」
「しかと承りました」
 ふふっと笑う顔は面白がっているようだ。まぁ、実際、こんな風に有栖川さんの世話係として対面する彼は、スーツではないのも手伝って、まとう空気が柔らかい。そういえば、外でお会いすることのほうが多くて、あまりプライベートな火村先生を見たことがないな、と改めて気がつく。
 編集者という立場から、私は有栖川さんとは懇意だが、その親友である火村先生については、有栖川さんを通して話を聞くことのほうが多い為だ。そこには、有栖川さんのお茶目な誇張やら自慢やら惚気も大なり小なり含まれているだろうから、そういったものを削ぎ落とした彼に対面するのは、ほぼ初ではないだろうか。
 スーツの時の彼は、有栖川さんが毎度言うように、だらしなく着崩しているが、それでもやはり、衣装のせいなのか、それとも彼自身の意識が違うのか、ピンと張り詰めたものを感じるのだ。衣装の差というだけでなく、きっとここで有栖川さんの世話をしていることこそが、彼をリラックスさせているのだろう。
「んー……おわった……かな?」
 えと、えと、ピリオド打ってえぇんやな?、という、どこか不安げな独り言に、有栖川さんの執筆が終わったことを知る。
「終わりました?」
「なぁ、ちん……えぇと、片桐さん、いらっしゃい。で、えっと、コーヒー俺にも」
 くるっとこちらを振り仰いだ有栖川さんが、何か言いかけたらしいのを引きつった顔で訂正するように私への挨拶に変えてから、火村先生に飲み物をおねだりする。
「……バカアリス。俺の名前を忘れんな」
「すまんな、火村」
「お疲れ様でした。ああ、忘れないうちに言いますけど、ちゃんと保存してくださいよ? 自動保存できるソフトとはいえ、ラスト十分間分が消えたら大変ですから」
 私に声掛けに、そうやったと有栖川さんはマウスを操作して文書を念のために別名保存もしてから、プリンターのスイッチを入れて印刷してみたらしく、ガガーッとプリンターが動き出す。
 そのBGMを背にのそりとこちらにやって来た家主は、ふわわとあくびを噛み殺してから、すとんと空いた椅子に座った。

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この書き下ろしも他のごはんシリーズのようにご飯を作って食べるほのぼのとした話です。
今回のキッチン担当は火村。書き下ろしだけは片桐さん視点でRなしですが、再録は全て季節ごとにエッチしてます。
未読の方のために言っておくと、ご飯食べて幸せなエッチする話が季節ごとに詰まったラブラブ本です。
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