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まなつのぼうけんサンプル

原作版書下ろし本(R18) オンデマンド/A5/64P(表紙含)より数点抜粋

一、ある朝の異変
                  有栖川有栖 視点


 ピピピピ、とスマートフォンのアラームが鳴り響く。
「んん……」
 もう朝か、と眠い目をパチリと開き、寝惚けたままで手を伸ばす。今朝は別に早く起きる予定はなかったはずだが、いつもの癖でアラームを入れたままだったのかもしれない。とりあえず音を止めなければ、と音の鳴る方へと手を伸ばす。
「ううん?」
 いつもならば、このくらい手を伸ばせば枕元のスマホに手が届くのだが、今日は指先が空を切るばかり。もぞりと仰向けから寝返りを打って目をこする。
 昨日、我が恋人である火村英生の下宿先に遊びに来てそのまま一泊したので、今日の寝床は私のマンションのベッドではなくて、下宿の布団だ。だからって、手を伸ばしても畳に届かないなんてことは今まで無かったから、今朝は相当寝惚けているのかもしれない。
「……ふわぁ」
 欠伸をしながらしゃんと起き上がって周囲を見回せば、私が探していたスマホは布団の端にあって、私のほうが枕よりも下に身体があったらしい。枕よりも下ならば布団から足がはみ出るはずなのにおかしいな、と思いながら四つん這いでスマホに近寄り、手に取ってスライドして音が止まってから、やっとこさ異変に気がついた。
「え、なにこれ……スマホ、でかない?」
 呟いてから、自分の耳を疑う声の高さにも違和感しかなくて、もう一度ごしごしと目をこすった。
私は、こんなに手に余るような液晶の大きいスマホを使ってないはずだ。首を傾げてスマホの画面を見るが、間違いなく私のカレンダーアプリが起動して、私が入力したスケジュールを表示しているし、スライドして確認した他のアプリもちゃんと入れた覚えがある。プロフィールに表示される番号も私の電話だ。
 ということは、おかしいのはスマホではないのか、と続いて自分の手をじっと見た。何だか手がかなり小さいような気がする。続いて見下ろした自分の身体や足も、手と同じように妙に小さい気がして、そんな馬鹿な、と立ち上がる。
「え……え……?」
 立ってみたら、目線があんまりにも低くて、ますます不安が増した。私の背丈はこんなに低かっただろうか、と困惑する。これではまるで子供のようではないか。
「うそやん!?」
 もしやと見回した先には、こんな状況でもぐーすか寝ている火村の頭があったのだが、タオルケットを蹴飛ばして寝ている彼のサイズもどう見ても子供のそれで。
「ちょ、火村、ひむらぁ!?」
 加減もへったくれもなく、べしべしと叩き起こしてみれば、白髪なんて見当たらぬ艷やかな黒髪がもぞもぞと動き、不機嫌そうな顔がこちらを睨み……かけて、不思議そうな表情へと変化した。
「……アリス?」
 ぱちくりと瞬く黒い瞳は理知的さを残しているが、くりっとして可愛らしい。黒髪は起き抜けだからぼさっと跳ねていて、頬が丸みを帯びて全体的に小さい。そして、声が聞き慣れない高さなのだ。バリトンはどこに行ったんだと驚くが、そういえば私の声もいつもより高かったのは、子供になったからなのか。
「ひむら……やんな?」
「そっちこそ、アリスだよな?」
 何がどうなっているのかを確認するために、私達は対面のお互いの身体を手でぺたぺたと触った。二人共が昨夜、裸で寝たので今も素っ裸なのだが、この小さな体では変な気も起きやしない。というか、昨日、火村に付けられたキスマークとかはすっかり消えて、子供らしく張りと弾力のある、きめ細やかな肌があるばかり。一体どうなってるんだ、と火村の頬をつねったら、痛いと怒られたので慌てて手を離す。
「ゆ、夢やないんやな?」
「どうやらそうみたいだ」
 一通りお互いの身体を触ってこれが現実なのだと理解した私と彼は、これをどうしたものか、とまずは原因を考えた。
「なにか変なもの食べたっけ?」
「昨日は普通に婆ちゃんの夕飯やったはず」
「だよな」
 確か、肉じゃがとかひじきの煮物とか、豆腐の味噌汁とかだった記憶がある。過去に何度も食べている下宿の大家である篠宮時絵の食事に何か入っていたようなことは今まで無いし、第一、私達に婆ちゃんが何を入れるというのだ。既に親を亡くした火村にとっての親代わりとも言える大事な彼女を疑うなんてもっての外。
「後は風呂上がりにアイス食った」
「いや、今までだって食ってたろ」
 食べたのはコンビニで買った、某有名なちょっとお高いアイスだ。でも、それが原因で子供になるとか聞いたことはない。仮にそうだとしても、市販品でこんな変な副作用が出たなら、もっと騒ぎになっているだろう。
「薬とか飲んだか?」
「いいや。飲んだ記憶はないな。二日酔いって程に飲んでもない。君もやろ?」
「うん。つまり……原因不明か」
 身体は子供で頭脳は大人とか、どっかの探偵漫画みたいだが、悪の組織の取引現場なんぞ見た覚えもないので、例の薬ではないだろう。そもそもあれはフィクションだ。
「まぁ何か思い出すこともあるだろうから、それはひとまず置いといて」
 がりがりと頭を掻く火村が困った顔で周囲を見回した。改めて見回す周囲は、子供の身体では随分と室内が広く見える。
「洋服、どうする?」
「あ、でっかいやんな」
 昨日まで着ていたのは当然ながら大人のサイズだ。子供が着たらぶかぶかだろう。これは困った。
「アリスの着替えで置いてる服だったら少しは小さいけど、それでも多分、大きいな」
 前述の通り、私は火村の恋人なので、この下宿にはもう何度も訪れている。お付き合いをする前から、親友として入り浸っていたものだから、着替え用に私の衣服も置いてあるのだが、それだって大人用のMサイズだ。火村のLサイズよりは小さいが、子供にとってはどっちにしろ大きい。
「とりあえず、婆ちゃんになんとかしてもらうか」
 ふーぅとため息をひとつ吐いてから、火村は私が昨晩脱ぎ捨てたTシャツを着て立ち上がった。肩は落ちているし膝まで丈があるが、とりあえず裸よりはマシだ。下着は折ったところでずり落ちるので、ノーパンだが仕方ない。
「アリスはここにいろ」
「えっ!? いやや、俺も行く」
 私も着るものを出さねば、と勝手知ったる押入れを開けるべく手をかける。普段なら難なく開けられるのに、背が低い分だけ開けにくくて、火村が手伝ってくれた。
やがて現れたタンスの引き出しを、これまた二人で引っ張り出し、引っ掻き回してなるべく小さなサイズのTシャツを着込む。それでもやっぱりぶかぶかで服に着られているが、着れるだけマシだ。
「とりあえず、下に降りよう」
 お腹も空いたし、トイレも行きたい。そして、婆ちゃんに事情を話さねば。うん、と了承して、二人で襖を開けて廊下へ出て階段を見下ろした。
「えっ……こわ」
 この階段はこんなに急だったっけ? あれ、おかしい。いつも何も考えずに上り下りしていたのに、背が低いとこんなにも降りにくそうになってしまうのか。
「アリス、手を繋ごう。そんで、俺はここ持つから」
 見れば、火村は右手でぎゅっと手すりを握っていた。その状態で左手を差し出され、私は彼のふくふくとした左手をしっかりと握りしめる。大人だったときの彼はがっちりした大きな手だったけれど、今は私とそんなに手の大きさが変わらない。けれど、私にとって今頼れるのはこの手だけなのだ。
「行くよ」
 トンと普段より軽い音を立てて火村がひとつ段を降りる。私もひとつだけ降りて、火村を見るとまた一段彼が先に降りる。両手で火村の手を握っているのは降りにくいな、と私は左手を反対の壁に添わせた。こちら側は手すりはないが、手を壁に付けたことで少しは安定感が増す。
 トン、トンとゆっくりゆっくり一段ずつ両足を降ろしていく。この階段、こんなに長かったかしらと思うのは、私達が今、子供になって慎重に降りているせいだろう。ああ、そういえばルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』で身体が小さくなってしまった描写があったな。
「私を食べて、なんて無かったけどな」
「何が?」
「『不思議の国のアリス』で、瓶入りジュースやお菓子で身体が小さくなるっていう」
 ああ、と納得したような火村の声に被さるように、にゃあと猫の鳴き声がした。にゃあにゃあ、なーう、とぞろぞろと増えた三匹の猫達は私達を不思議そうに見上げながら身軽に階段を登り、すんすんふんふんと私達の匂いを嗅ぐ。彼らにもこの現象は不思議だろうなぁ。猫パンチをお見舞いされないだけマシだが、猫達のサイズ感がいつもより大きくてちょっとだけ怖い。
「猫でっかい」
「うん。子供からすると、こんなに大きいんだな。――ウリ、そこに居ると邪魔」
 大人なら、階段の途中で猫に邪魔されても手で抱き上げられるが、子供だとそれはなかなか難しそうだ。何しろ手すりとか壁とかを持ってないと落ちそうで怖いので、立ち往生してしまう。
「――あら? あらあら、まあまあ、……これもフィールドワークですのん?」
 救世主とも言うべき大家の篠宮時絵が台所からやってきて、階段の途中に居る我らを見て、意味のない感嘆符を口に出しながら私達を見回しつつ、首を傾げて訊いてきた。英都大学の社会学部准教授である火村は、犯罪を研究していてその一環でフィールドワークと称して警察の捜査に協力することも多いのだが、流石に幼児化するような研究はしていない。
「違うよ、婆ちゃん。起きたら突然こうなってたんだ」
「なにかの病気ですやろか?」
 不安そうに眉をひそめるので、こっちまで不安になってくるが、今の所、痛みもないし、不便さはあれどそれだけだ。病気という感覚はない。
「明日になれば戻ってるかもしれないけど、まずはここを降りたいんだ」
「婆ちゃん、俺トイレ行きたいねん。猫達なんとかして」
「はいはい。ほんなら一気に運びましょ」
 婆ちゃんがこちらに両手を伸ばして来るので、これは抱き上げられるのかと理解して、火村と繋いでいた手を離して彼女へと手を伸ばす。ひょいとあっけなく私を抱き抱えて階段の下へとすとんと降ろしてくれた婆ちゃんは、続いて火村にも手を伸ばしたが、照れたのか、彼は首を振って階段を自力で降りる。それを横目に私はトイレに行って用を足した。
自分が縮んだからどうなるやら心配だったが、多分、今の私は幼稚園の年長さんか小学校一年生くらいなのだろう。一人でもなんとかなったのは助かった。トイレを出たら入れ替わりに火村が入り、普段より高い位置の洗面台に苦戦しつつ何とか手を洗って、まとわりつく猫達と一緒に二人で居間へと向かった。
「二人共、えらいこまくなってしもて……これはまだ大きいやろなぁ……これならどうやろ?」
 居間の奥にある婆ちゃんの私室からガタガタばさばさと物音がする。なんだろう? と揃って顔を覗かせると、彼女はタンスから衣類をいくつか引っ張り出しているところだった。
「婆ちゃん?」
「ああ、これ。これとか着れるんとちゃう? うちの孫が着てたんやけど」
 なるほど。お孫さんの服が残っていたなら有り難い。ただお孫さんは女の子だった気がするのだが。
「Tシャツとか半ズボンとかもあるし、色も黒や青やし、どないやろねぇ?」
 使えるものがあるとええけど、と示す畳の上には、子供サイズの衣服がいくつか。手に持って広げてみれば、火村が手にしたのは黒のTシャツとウエストがゴムになってるジーンズ生地のハーフパンツ。私が手に取ったのは、セーラー襟のシャツとお揃いらしい短パン。どちらも男女関係ないデザインで助かった。
「これなら着れそう」
「せやな! 婆ちゃん、おおきに!」
「下着はこんなんしか無いんやけど……」
 申し訳無さそうに出してくれたのは、日曜朝の魔法少女のキャラクターのプリントされたものだったが、これはもう仕方ない。この幼児化が長引きそうなら改めて買いに行かねばならないだろうが、とりあえず下着なので外からは見えないだろう。
「履けるだけマシだよ」
「これはしゃあない」
 物持ちの良い婆ちゃんにありがとう、とお礼を言って、いそいそと着替えればやっと人心地がついた。服は多少大きめかなと思わないでもないが、ずり落ちる程ではないのが有り難い。サイズ違いだった衣装をまたタンスに収め、婆ちゃんは私達に声を掛けた。
「今日は平日やけど、夏休みやから、お仕事に影響なくて良かったどすねぇ」
「夏休み中に無事に大人に戻りたいよな」
「特に君はな」
 私は小説家だからキーボードをぽちぽちして書き上げさえすれば、外見が幼児になっててもしばらくはどうにかなるが、火村の方は勤務先である大学にこの姿で出て行くわけにいくまい。さらに、彼の研究は犯罪であり殺人なのだ。子供になっていたら、そんな物騒なことには関わるな、とフィールドワークすら無理だろう。たとえ、中身は大人であっても、だ。
かの小学生探偵だって、保護者の一人であるおっちゃんに殺人現場から何度も遠ざけられているのだから、リアルな警察官達の反応は聞かずとも察せる。
「まぁ原因も不明だし、まだ夏休みは残ってる」
「むしろ、この身体でできることやりたいやんな!」
 突然小さくなったのは驚いたし不便もあるだろうが、逆に考えればこれは滅多にない体験だ。これを楽しまずしてどうする、と子供の私がはしゃいでいるのだ。
「先に病院に行くべきかとも思うたんやけど……どこに行ったらええやらわからんしねぇ」
 困った顔で婆ちゃんが頬に手を当てて悩んでいる。もしも行くとしたら内科だろうか。とはいえ私が医者だったらそんな妙な症状の患者が来たら困惑するだろう。某小学生探偵のように都合よくマッドサイエンティストな隣人なんて私達には居ないので、そのあたりはフィクションには敵わない。
「三日で元に戻らなかったら、病院に行ってみるか」
「うん」
 流石に何日も戻らないとなると、何か身体自体がおかしい可能性もあるので、それは賛成だ。健康保険証が大人のものなので、からかう気か、と受付で怒られるかもしれないが。
「ほんなら病院は後回しにして、まずは朝ご飯にしましょ」
 よいせと声を掛けて婆ちゃんが立ち上がる。
改めて思うが、いつもは私達のほうが彼女よりも背丈が高いので軽く見下ろしていた状態なのに、今日は珍しくも彼女を見上げる格好なので不思議な気分だ。
「お腹すいた」
「朝ご飯出すの手伝う」
「今日は、味噌汁は婆ちゃんが出しますさかい。お手伝いはご飯だけね」
 ぞろぞろとダイニングへ移動すると、今からよそうらしい茶碗がテーブルの上に伏せてあった。これまた家具の大きさは変わらないのに、目の高さが違うから変な感じだ。婆ちゃんが味噌汁はやる、と申し出たのは、この背丈だし、熱い汁物だと火傷しかねないと思ったのだろう。彼女は温め直さず、まずは味噌汁をそれぞれの椀に半分程度注いで、それから空のご飯茶碗を持った私と火村に手を差し出す。
「少な目にしときますえ。足りなければお代わりで」
「はーい」
「うん」
 茶碗に半分くらいご飯が盛られる。それをいそいそとテーブルに置いて、いつものように椅子を引いて座ろうとして気がついた。椅子がちょっと高い。よじ登るようにして着席したものの、今度は座面が低くてご飯はまだしも、味噌汁が持てるか怪しい。
「あらあら、えぇと、ちょっと待って」
 何か座高の高さを増すものをと婆ちゃんが奮闘した結果、折りたたんだ座布団やら、ソファのクッションで高さを増して、なんとか無事に位置の調節ができた。
「これで大丈夫やろか?」
「大丈夫。楽になった」
「いただきます!」
 あー腹減った、と言いながらいつもより長い箸で食事開始だ。フライパンの上にあったらしいハムエッグを婆ちゃんが皿に乗せて出してくれる。婆ちゃんの朝ご飯は相変わらず美味しいのだが、ひとつ問題が。
「ああ、有栖川さんはフォークのほうがええやろか。火村センセもフォークにしましょ」
 箸が長いというのが多分その最たる原因なのだと思うが、手そのものが小さいとか、幼い体躯で手の筋肉も未発達というのもあるかもしれない。どうも長い箸が持ちにくいのだ。
「はい、フォークとスプーンどすえ」
 大きな物は難しいと思われたらしく、デザートフォークとティースプーンがそれぞれ渡された。
「ありがとう」
「ごめんな、婆ちゃん」
「ええんですよ。こちらこそ気が利かんと悪いことしてもうて」
 どうもいつものお二人と違う意識を持たんとあきまへんな、と婆ちゃんがはんなり笑う。
「いや、こっちこそ」
「有り難く思ってるから気にせんで!」
 お互い様だと告げる私達に、そうどすねと微笑んで、婆ちゃんは料理の本をぱらぱらとめくる。
「スプーンのほうがええんなら、お昼ご飯と夕ご飯は、洋食がええやろか。卵が余ってんねんけど」
「卵? ほんなら、オムライス! ほんで、夜はカレーがええ!」
 はーいと手を上げてリクエストすれば、婆ちゃんは料理本を閉じてころころと笑った。
「あれまぁ、もう決まってしもたねぇ。火村センセはどないです?」
「俺もそれでいいよ」
「ほんなら、もう決まりどすねぇ。――せやけど、材料が足りませんわ。根菜類も無かったはずやし」
「お使い、行く!」
「俺も」
「うーん。二人一緒やったら大丈夫ですやろか」
「思考回路は大人だし、平気」
「だいじょうぶ」
「分かりました。ほんならお二人に任せましょ。よろしゅう頼んます」
 婆ちゃんに軽く頭を下げられて、私達は元気よくハイと返事をした。


















二、冒険、水浴び、お昼ご飯
有栖川有栖 視点


「ごちそうさまでした!」
「おいしかった!」
 朝食を食べ終えて二人で婆ちゃんに礼を告げると、後は引き受けますよ、と私達の頭上を超えて婆ちゃんの手で皿が流しに運ばれていく。大人になるとそうそう自分の頭の上を物が通ることはないものだが、この背丈だと頭上注意になるのか、と首をすくめながら改めて思う。
「お使いは、夕方からでかまへんし、遊んできてええですよ」
「はーい! なぁなぁ火村、外出て冒険せえへん?」
「そういや靴ってあったっけ?」
 はたと気がつく。服があったんだからお孫さんの靴もちゃんと残ってると思いこんでいたが、よく考えたらどうだっけ?
「見てみよ」
「それが早いな」
 バタバタと玄関先の下駄箱に突進して行けば、大きめの下駄箱の端っこの方に小さな子ども用の靴が三つ程残っていた。赤ちゃん用は論外として、履けそうなのは赤いスニーカーと水色のクロックスのサンダル。
赤いスニーカーの方は少しだけ私達の足より大きめだが、マジックテープをきっちり留めれば普通に歩ける。
水色のクロックスの方は甲部分にたくさん空いた穴のひとつにイチゴのチャームがひとつくっついているが、それを外せば男の子が履いても問題はなさそうだ。
「どっち履く?」
「うーん……ほんならじゃんけん!」
 きゅっと握った小さな拳を軽く振る。火村も同じように拳を作った。
「せーの、最初はグー、じゃんけんぽん!」
 私がグーで、火村がパー。火村の勝ちなので私は火村に選択権を譲る。
「じゃあ、こっちの赤いスニーカーにする」
「ほんなら、俺はこっちやな」
 婆ちゃんのお孫さんが靴に付けたイチゴのアクセサリーは悪いけれどもプチッと外した。そうすると、ごく普通の水色のクロックスだ。
「俺のセーラーも青やし、お揃いぽくてええわ」
「うん」
 火村のほうは衣服はモノクロ系で靴だけ赤で派手だが、子供は割と衣服と靴の色がちぐはぐでも気にしないものだ。履ければ上等なのである。
「よし、まずは庭に……」
 ガラッと玄関の戸を開けた途端に、むわっと熱風が身体を包み込んだ。外はほんの少しだけ雲があるが、晴れ間が覗く。つまりは、かなり暑い。そういえば、まだ夏休みだった。
「むっちゃ暑そうや」
 既にげんなりしてため息を吐けば、私の後ろから外の様子を見た火村が慌てたように声を上げた。
「あっ! アリス、ちょっと待った! お茶忘れてる!」
「あ、せやった」
 このまま何の準備もせずに外に出れば熱中症になってしまう。玄関を閉め直し、冷蔵庫に駆けていってペットボトルのスポーツ飲料とたっぷり沸かしてある麦茶とどちらにするかちょっと悩む。
「アリス、麦茶にして氷も一緒にこれに入れよう」
「お、せやね」
 前に小さめの直飲み水筒をふたつ買っていたのだ。どんな理由で買ったか既に記憶がないが、夏のフィールドワークに持って行ったりして、今でも活用はしている。ボトルの中を軽く水洗いして氷を多めに入れ、麦茶を入れて蓋を締める。
 肩掛けの専用ケースに収納して、紐の長さを短く変えて肩に掛ければ水分の確保は完璧だ。あと、念の為に小銭も少し用意した。
「あぁ、二人共、暑いからこれを被ってらっしゃいな」
 ぽんと頭になにか被せられた。頭を上げつつ手で触れてみれば、麦わら帽子の感触。どうやら婆ちゃんは帽子を探してくれたらしい。火村の方は白のキャップだった。
「ありがとう」
「冒険もええけど、今の時間、外はほんまに暑いから気ぃつけてね」
「はい。ちょっと行ってきます」
「行ってきまーす!」
 ぺこりと火村がお辞儀し、私は早く早くと彼を玄関に引っ張っていった。二人で靴をそれぞれ履いて、改めて近所の冒険だ。
 もう北白川は見慣れてるだろうって? いやいや、そうではない。大人になると冒険しようなんてなかなか思わないものだが、子供の姿ならば裏道とかの探索だけでもきっと楽しい。この小さな体でどこまで出来るのか、目線が違うとどんな見え方なのかを見てみたい。
 私はわくわくと逸る気持ちを抑え、火村を従えて玄関を出た。

* * *

「あっちぃぃぃ」
「やばい暑さだな、これ」
 外を五分程度歩いただけでぐったりする。いや、大人のときだって昨今の夏は暑すぎてへばるのだが、子供のサイズだからなのか、やたらと蒸し暑い。なるべく日陰を歩いて近所を半周しただけなのに、もう何度もちびちびと水分補給したものだから水筒は大分軽くなった。
「なぁ、よく考えたらさぁ」
 私の横で水筒の蓋を締めた火村が、じっとアスファルトを見つめる。
「なんや?」
「今、俺達って背が低いな?」
「うん」
 それがどうした? と火村を見れば、彼は晴れ渡った空と下のアスファルトを交互に指差した。
「アルファルトの照り返しをモロに受けてそうだなって」
「あっ!」
 夏によく言われる現象だ。黒いアスファルトは太陽の熱でより熱くなる。背が低い子供やペット、そしてベビーカーなど、アスファルトに近い位置だと照り返しの熱を浴びやすくてのぼせやすくなるのだという。
「そうか。それでこんなに暑いんやな」
 納得した。納得はしたが、残る冒険はあと半周。エアコンが恋しいから駆け足で下宿に戻ってしまおうか。
「うう、冒険で死んだらあかん……」
「時間変えて夕方にしようぜ。昼近いと駄目だ。倒れる」
「うん」
 はぁ、と息を吐き、日陰で立ち止まってごくごくと水分を補給する。ああ、もうこれで持ってきた麦茶が最後だ。冒険は諦めてそろそろ帰らないと。
「なぁ、こっち近道になると思う。それに、この先でアイスが買える」
 火村が細い道……というよりも、家と家の間の低いブロック塀を指し示した。幅は狭いが子供なら通れそうだし、現に今も猫が一匹、身軽に悠々と塀の上を通っていく。猫好きな火村は普段から近所の猫の行動を見ていて猫道を知っていたのだろう。
「アイス! アイスむっちゃ買いたい!」
 この暑さにその提案は願ったり叶ったりだ。じゃあ行こうか、とブロック塀に足を掛ける。真っ直ぐに奥へと塀は続いていて、家一軒分を通れば向こう側の道路に出る図式だ。両手を広げれば、隣り合った家の外壁や窓に手が届くので、バランスを崩して落ちることはなさそうだが、ブロックの幅は足の大きさより少し広いくらいだ。
「足を踏み外すなよ?」
「わかってる」
 平均台なんて何年振りに渡るかなぁ、とかおかしく思いながら、雑草の目立つ低いブロックを踏みしめて慎重に歩く。こんな日陰でも雑草はブロックの両脇を埋めるように生えていて、地面が見えやしない。小さな蝶がひらひらと道案内をするように私の足先を飛んでいく。
「ねこじゃらしが足に当たってこしょばい」
「あぁ、エノコログサ」
 あっさりと火村が正式名称を言う。こいつ猫に関することなら雑学暗記してるよな。この雑草の見た目は犬の尻尾のようだが、よく引き抜いて外にいる野良猫の前でこれを振って遊んだものだ。エノコログサの他にも、カヤツリグサなんかも花というか穂というか、そんなのを広げているのが足元の素肌をくすぐって笑いそうになる。
「あ! これ、タンポポやんな? こんな日陰で根付いて可哀想に」
「あぁ本当だ。風や猫が種を運んだのがここだったんだな」
 足元のギザギザの葉に見覚えがあって足を止めて言えば、さらりと答えが返る。植物は自分で動けないから種を運んでもらった場所が永住の地になるわけだ。
「夏は涼しそうやけど」
「逆にいいかもしれないぜ? 直射日光が当たる場所だと真夏は干からびそうだ」
「確かにな。俺らが子供の頃、こんなに猛暑やなかったし」
 なんやかんや話しながら歩けば、外壁にも助けられて塀から落ちることもなく、程なく反対側へ着いた。きょろきょろと周囲を見回して、向こうから来た自転車をやり過ごしてから、ぴょんとアスファルトに飛び降りる。続いて火村も降りてきた。
「そっちでアイス買える」
「あ、ほんまや!」
 降りた道路の斜め向かいにある小さな商店の店先には、暑さ対策のためか、すだれがかかっている。車が通る程の道路なので右を見て左を見て。もう一度、右を見てから足早に店先に駆け込んだ。
「ここ初めて入った」
「俺も」
 下宿とは目と鼻の先らしいが、タバコの取り扱いがないから火村は普段、別の店に行くほうが多いのだ。店自体も雑貨屋みたいなので、昔のコンビニみたいに雑多なものを売る店と思っていいだろう。近所の小学生用なのかノートや鉛筆のような文房具があるかと思うと、洗剤類が置いてあったり、除草剤や箒が置いてあったりするが、今の私達の目的はアイスだ。すだれに隠れるように店先に置いてあるアイスの冷蔵庫を二人して覗き込む。種類はそんなに多くないが、カップのアイスクリームやカップ入りかき氷、ソフトクリーム、当たり付きのガリガリくんやスイカバーのようなバーアイスなどが雑多に入っている。
「どれにする?」
「ガリガリくん!」
 むしろこれ一択だ。夏はソーダ味に限る。ちょっとソフトクリームと迷ったらしい火村も、結局私と同じものを取り上げ、二人で小銭を支払った。
「ゴールはあっち」
「あ、分かった。あそこ曲がればすぐやな」
 通る車に注意しながら、火村が指し示してくれた下宿までの道を急いで駆け戻る。この暑さでアイスが溶けないうちに帰らねば。
「ただいまー」
 バタバタと駆けてガラリと玄関を開け、奥に聞こえるよう声を上げながら靴を脱ぐ。火村がきっちりと玄関を閉めて、カチャンと内鍵を掛けた。
「はー、暑かったぁ」
「早くアイス食べよう」
 玄関先で帽子を脱ぎ捨て、洗面所で汚れた手を洗い、エアコンの効いた居間へ行って、水屋から皿を取り出してアイスを袋から取り出す。幸いにもちょっぴり溶けた程度で済んだので、安心して棒を握って口に運ぶ。かぷっと噛み付けば、冷たいアイスが口の中に飛び込んできた。
「つべたーい」
「早く食べないと溶けそう」
 火村の方は、一心不乱にアイスの側面に噛み付いて溶けぬうちに端から食べ尽くそうという気らしい。私もそれに倣ってはぐはぐとアイスをかじる。時々かじるのを止めて溶け出している下の方の側面を舐めながらまた本体にかじりついて。
やがて、ちょっとは溶けて皿に小さな水たまりを作りながらも食べ終えた。最近はあんまり、ガリガリくんなんて食べてなかったが、こんなに美味しかったかな。そして、密かに期待していた当たりくじは二人共がハズレだった。残念。
「はー……」
「あらあら、やっぱり暑かったんやねぇ」
 ちょっと食べ疲れた気分で休憩していると、婆ちゃんが庭から顔を出した。シーツを抱えているので、干していたのを取り込んだのだろう。
「ほんま暑かった」
「お使いは夕方に行く」
「せやね。夕方は曇りになるって言うてたから、それがええわ」
 頷きながら婆ちゃんがピッピッと操作するエアコンが風向きを変えて涼しい風をこちらに運んでくる。外があんまりにも暑かったから、やはり室内がいいな、としみじみ思う。冒険もわくわくしたが、日中は辛い。
「汗かいてへん? 夕方までお部屋に居るんやったら、ちゃちゃっと洗濯して乾かすけど」
 婆ちゃんに言われて、改めて私達は自分が着ていた衣服の胸元を摘んだ。確かに汗をかいてしっとりしている。エアコンの部屋にいると風邪を引きかねない。
「洗ってもらえたら助かるけど」
 いいの? と問うように見上げた我々に、どうせ今から洗濯予定やったから、と婆ちゃんは微笑んだ。この暑さだから、外に干すかエアコンの効いた室内なら夕方までにはしっかり乾くだろう。
「ほな、脱いで脱いで。水浴びするんやったら、倉庫にビニールプールもあるしな。他の着替えも探すわ」
 その言葉にちらりと二人で視線を交わす。その申し出は確かに楽しそうではあるけれど。
「水着がないよな?」
「ううーん」
「二人の大人用の下着のゴムを調節したら水着の代わりくらいにはできるんちゃいます?」
 布が余りまくるので下着にするには余った布を切って縫い直しが必要だが、簡単に腰の調節だけなら水着くらいにはなるだろうと婆ちゃんが提案した。
「やってみる?」
「物は試しやな! 使えそうなパンツ探してくる」
 ばさばさとセーラー服の上下を脱ぎ捨てて、婆ちゃんに洗濯を頼み、私はパンツ一丁で階段を駆け上がった。火村も同じく下着だけで私の後を追い、二人して火村の部屋でそれぞれのパンツを引っ張り出して検分する。
「ゴムを調節するんやから、ゴム紐が通ってるやつがええんやろ?」
「そうそう。あ、これ使えそう」
「早いな、君。……これ使えるかな」
 それぞれ獲物を見つけ、ゴム紐の通し口からゴムを引き出してぐいぐい引っ張り、良さげな長さで結び目を作る。子供用の下着を脱いで履き替えてみれば、ちょうどよく腰に収まった。とはいえ、布が余ってるのでプリーツのように裾が広がって、ちょっと格好悪い。
「なんやスカートみたい」
「ふふふ」
 似合ってるぞアリスと言われて、あかんべーと火村に舌を出す。自分だって妙ちきりんな恰好なくせに。
「水浴び行こうぜ」
「うん!」
 その前に階段を攻略せねばと朝と同じく手を繋いで慎重に階段を降りる。朝と違って、猫達は涼しい居間でくつろいでいるから、足元を邪魔されずに階下に降りれた。庭に行く前に洗面所に寄ってバスタオルを二枚確保すれば、準備は万端だ。
「倉庫やった?」
「うん」
 庭の倉庫には芝刈り用の鎌とか、庭掃除用の箒とか長いホースとか園芸用の肥料とかが入っているのだ。そういや、棚の端に派手なのがあったようなと記憶を掘り返しつつ庭へと出れば、既に婆ちゃんがビニールプールを取り出して、空気入れを足で踏んでいるところだった。
「あ、それやりたい」
「後はやるからいいよ」
 私と火村が駆け寄ると、婆ちゃんは、あら素敵な水着、と褒めながら空気入れから足を離す。私は彼女と交代して、黄色い空気入れを裸足で踏みつけた。ビニールプールは少し小さかったけれど、あまり大きいと膨らませるのも大変なのでこの程度で充分だ。
「穴開いてないとええんやけど」
「開いてたらガムテープかな」
「ぼろっちぃ」
 笑いながら、足を踏めば少しずつ空気が入っていき、側面が立ち上がってくる。途中で火村と交代して踏んで、どうやら完成したらしい。空気は幸い漏れてない。
「保存状態が良かったんだな」
「ほな、水入れよ」
 庭用のホースの先端をプールに入れて蛇口をひねる。勢いよく水が出たのはいいのだが、蛇口もホースも直射日光に当たっていたものだから、出てくる水が温かい。
「ぬっる!」
「むしろ、お湯だろこれ」
 あはははと笑いながら、半分程度になったところで水を止める。ちゃぽっと足をつけてみれば、やはり温い温度で笑ってしまう。
「水浴びってか、お湯浴び」
「水、入れ替えるか?」
「ええよ。これはこれでおもろい」
 縁側に目をやれば、婆ちゃんがついでに倉庫から出したらしいプラスチックの水鉄砲や、黄色いアヒルのおもちゃが置いてあったので、まずはこれだろうと水鉄砲を手にしてタンク部分に水を汲む。火村の方はアヒルを掴んで水に沈めた。
「いやそれ、浮かべるやつやん?」
「残念でしたっ!」
 水から引き上げたアヒルを持った火村が、黄色い側面をむぎゅっと押す。その途端にアヒルの赤いくちばしから、水がぴゅーっと吹き出して私の頬にかかった。
「わっぷ!」
「ちゃんと遊べるんだぜ、これも」
「ほんなら、反撃や!」
 ざばっと水から引き上げた水鉄砲を火村に向けると、慌てて彼は顔を背けたので、私の攻撃は黒髪を濡らすに留まったが、なかなか楽しい。そして、お互いの獲物がそれぞれ水をそんなに多く貯めておけないので、すぐに水切れで水を貯め直し、相手の動向を見ながら発射するという駆け引きが発生する。
何度か水鉄砲、アヒル鉄砲で水を掛け合い、まどろっこしくなった私は、プールに溜まった水を両手ですくって、火村にぶっ掛けた。
「ぶわっ!」
「あはは、びしょぬれー!」
「あーもう、そんならこうだっ!」
「きゃー!」
 お互いに至近距離で足元の水を手でばっしゃばっしゃと掛け合うものだから、たちまち周囲はビショビショになる。頭から全身ずぶ濡れになったところで、ちょっと疲れてお互いに息を吐く。
 明るい庭先で、私達が暴れたせいで水滴がかかった朝顔がキラキラと光っている。ぷるぷると犬みたいに首を振って顔と頭の水分を飛ばした火村が、額の水滴を拭って太陽の輝く空を見上げた。
「あっついなー」
「あ、ほんでも雲に隠れそう」
 ぎらぎらと照りつけていた太陽が雲に隠れて、ちょっとだけひりつく肌が楽になった。ただ、私達が全身濡れてるせいで風が吹くと逆に今度はちょっと寒い。
「っくしゅん!」
「もう上がる?」
「うーん」
 水浴びを切り上げるのは惜しいけど風邪は引きたくないなと迷っていたら、婆ちゃんの声がかかった。
「お昼ご飯出来ましたえ」
「はーい」
「いま上がるー」
 まだ多少は名残惜しかったが、ぐぅと鳴りそうな腹には素直に従いたいところだ。縁側に上がり、バスタオルでしっかりと水気を拭いて、婆ちゃんが持ってきてくれたドライヤーで髪を乾かす。水着代わりの大人の下着は水気を絞って洗濯機に入れに行った。私達の子供サイズの服は、既に洗濯が終わっていたので、二階で干されているのだろう。
「とりあえず着替えはこれね」
 またお孫さんの衣装を探してくれたのだろう。婆ちゃんが出したのは子供サイズの下着の他に夏用の白地に金魚柄の浴衣とピンクの甚平だった。夕方まで外に出ない予定だが、全て女の子向けの柄なのは仕方ない。
「せーの」
「最初はグー、じゃんけんぽん」
 今度は私がチョキで、火村もチョキ。あいこでしょ、のやり直しで結果的に私が勝った。だが、どっちもどっちな色柄だ。
「うーん……まだ無地のほうがマシかな」
 ピンクの甚平を選んで着てみる。少し腰がきつかったが婆ちゃんがゴムを調節してくれて、きつさはなくなった。火村の方は、金魚柄の浴衣を身に着けて腰に兵庫帯(ひょうごおび)を巻く。とりあえず着れれば何でもいい、とばかりに、嫌がってそうではないのだが、姉に服を借りた弟みたいだ。
「はい、オムライスですよ」
 どうぞと出してくれた皿の中央には子供サイズのオムライス。そして麦茶のグラス。皿の端っこにオレンジのくし切りとキウイの輪切りが乗ってるのは、デザートなのだろう。ケチャップもどうぞ、とボトルで出してくれたので、いそいそとケチャップを手に取って。
「なに書こう?」
「名前とか?」
「せやな」
 『アリス』と書いて、ついでに星とハートもケチャップで書く。筆記具と違って書きにくいのでよれよれになったが、書きたいものは書けた。これでよし、とボトルを火村に渡す。
ちょっと考えてから、火村も『ひでお』と卵の上に絞り出した。オムライスに名前を書くとか、大人になったら、照れもあってしないので久々だ。
「いただきます」
「いたらきまーす」
 舌がもつれたが、まあ少々。誰も突っ込まなかったからスルーして、小さなスプーンを取り上げてオムライスを崩しながら口に運ぶ。最初から大きめの鶏肉が口の中に転がり込んで美味しさがうなぎ登りだ。
「んま」
「うん、美味しい」
 朝もしっかり食べてたはずだが、冒険と水浴びで消耗したエネルギーを補うように、もぐもぐと口に運ぶ。つくづく思うが、婆ちゃんの居る北白川で良かった。私のマンションで幼児化していたら、色々と詰んでるに違いない。
 つらつらと思いながら食べていて、妙な苦味を舌が察知して、口の中で選り分けて皿に出してみれば、緑色のピーマンのみじん切りだった。
「なんやろ……こんな苦かった?」
 おかしいな。ピーマンの苦味は大人になって克服していたはずだが。首を傾げれば、麦茶を飲んでいた火村が、グラスを置いて小首を傾げた。
「舌が子供に戻ってるかも」
「そうなんかなぁ」
 もう一度ピーマンを口に入れて噛んでみる。やっぱり苦いな、と麦茶でごくんと飲み込んで。スプーンの先で緑色を見つけては、皿の端にそれを避けて、残っているオムライスをぱくぱくと食べ進めておく。
「ピーマン駄目か?」
「ちゃうって。今、舌が変なだけやもん」
 このピーマンのみじん切りは後で錠剤みたいに噛まずに飲んでしまえばいいのだ。そういえば、小さい頃はそうやって何とか食べてたなと、懐かしく思い返して。
「君、好き嫌いはなかったん?」
「あったよ。レタスとか食べなきゃならない意味が分かんなかったし」
「レタス! 俺もそれは思うた! キャベツはお好みにもたこ焼きにも入るから克服は早かったけどな!」
 なんだ、火村も好き嫌いのある子供だったのだ。共通点を見出してにやにやすると、火村が彼の皿の中のオムライスをスプーンの先で突く。
「ちっちゃい時は、しいたけもちょっと無理だった」
「むっちゃ分かる。大人になるとダシとかになるし、美味いと思うけど、なんかあかんねん」
 子供の偏食あるあるだ。ピーマンはあの苦味で食べられない子は多そうだが、人参とかも逆にあの甘味が駄目という子もいる。匂いとか味とか見た目とか、何かしらその子のセンサーに引っかかったら、なかなか克服まで時間がかかるものだ。
「カレーは甘口にしよな?」
「うん」
 ピーマンに気がつくまで失念していたが、きっとこの舌では辛いものは無理だ。甘いカレーとか何年ぶりかなと思いながらオムライスを食べ終え、最後のピーマンのカケラを麦茶でごくんと飲み込んだ。


<中略>


■最後の七章で大人に戻ります。R18展開です。
この章のせいで18禁本になってますので、ご注意下さい。

<R18のサンプル抜粋ここから>
「いくつに見える? 昨日みたいに小学生に見えるか?」
「ちゃんと大人や。准教授しとる君や」
 いつもの見慣れた姿がはっきりと私の目に映る。白髪交じりの黒髪、大人の顔立ち、キャメルの香り。
「アリスだってちゃんと大人だ。推理小説家・有栖川有栖。俺の恋人兼助手」
 そうだろ? と念を押されて、こくりと頷く。確かに昨日の幼い君も少しは面影があるけれど、若白髪で漆黒の瞳で心に闇を抱えて、犯罪を憎んで犯人を追い詰める君だ。
「……うん」
「ご理解頂いたところで、足を開いてくれ。大人のお前に種付けしたい」
「せやから、なんで君はそう、むっつりスケベになってしもうたんや……イケメン台無しやんか」
 あんな可愛かったのに、どこでねじ曲がってしまったのやら。そんな風に育てた覚えはないが、突っ込みたくはなる。
「ちょっと格好つけたらお前がキザだキザだって毎回言うから別の言い回しに変えたら、結果的にオヤジっぽくなっちまったんだろ」
「人のせいにすんなっ……あっ、あんっ、いきなり二本っ」
 やれやれとか呟いて、再び火村が止めていた愛撫を再開し、ぐちゅぐちゅちゅこちゅこと私の奥が二本の指に翻弄される。粘膜をスリスリと指の腹でこすられて私は腰をくねらせた。
「あっあっ、そこ。あかんっ」
「だんだん中が俺の指に吸い付いてきてるぜ? かーわいい」
 にゅちっぐちっちゅぷぷっと火村が指を動かす度にいやらしい音が下から溢れて耳に届く。半ば無理やりにセックスに持ち込まれた私は、細く喘ぎながらただひたすら火村を見つめていた。それは私の脳裏に居る昨日の小さな火村の姿を、目の前の大人の火村で上書きするような行為だったかもしれない。
「ん、いい子だ。ここに俺の欲しいだろ?」
 もう指がだいぶスムーズに動かせるくらいに蕩けた穴から、ゆるりと火村が指を引き抜いてジェルを足し、焦らすようにペニスの先で濡れた穴を撫でつける。
「うう……そんなん聞かんといてぇ」
 もういっそ私の混乱をぶち破る勢いで強引に抱いていい。昨日の小さな手では出来なそうなその大きな手で、熱い楔で私を蹂躙して大人の君を私の身体に刻みつけろ、と言い放ちたくなる。


---サンプルここまで。

急に子供になった理由は謎のままです。
常連さんならご存知のご都合主義万歳なので、細かいことは気にしない人向け(笑)

この先は本編にてお楽しみ下さい。
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